日本語は議論に向いていない言語なのかを知りたい 〜日本語は論理的である

2020年6月12日金曜日

読書

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山田さんはお金がたくさんある

実はこれ、比喩表現である事にお気づきだろうか。

日本語は論理的である (講談社選書メチエ)

本書は英語と日本の違いを中心に書かれている。
英語の文章をそのままの意味で訳せないモヤモヤを言語化できて非常にスッキリした。
根本的な理由としては「日本語と西欧の言語の違いは、論理の違いではなく、論理の中のどの部分を多用するかの違いなのである」(p127)という部分に本書の本質が集約されていると感じた。


言語による比喩の形式

それはそれとして本書は言語の認識に対して示唆に富んでいて興味深かった。

言語における論理とは、比喩の事である。

抽象的な物事を言語により理解するにはまずイメージ出来なければいけない。とはいっても概念上にしかない存在を具体的にイメージするにはモノに置き換えなければ難しい。そこで比喩により言語は発達したというわけだ。
比喩の形式には種類がある。


日本語は容器の比喩を多用し、英語は擬人の比喩を多用する。

山田さんはお金がたくさんある

冒頭の文章である。
これは山田さんを場所として扱っているから「ある」という表現になるのだ。
この様に人を場所や領域と見立てることが日本語ではよくある。また状態を領域と見立て場合もある。

彼は試験中である(試験が容器)

この場合、彼は試験という容器の中に存在している、という比喩表現と捉えられる。

これらが日本語の比喩の基本となる考え方。容器の比喩である。



対して英語は、主体の論理と呼ばれる、主体を擬人化する比喩を基本とする。

Pain stung her into consciousness.

刺すような痛みで、彼女は意識がよみがえった

という意味の文章だが、

直訳すると“痛みが彼女を刺して意識の中にした”

つまり、痛みという抽象的な主体を人に見立てているのだ。

英語はこの主体を人に見立てて動作をさせる擬人化がベースの比喩となる。



これが英語と日本語の比喩の形式における論理の違いである。

直訳すると比喩の表現をそのまま適応できず、違和感を生じてしまうのはこのためなのだ、と腹に落ちた。


日本語を通して英語を深く知る一冊

本書は日本語が非論理的でない事を証明するための考察である。
難しい単語もなく文章自体も読みやすく作ってあるが、考え方自体に数学的な要素や、論理の展開が多い。
知識がなくても問題なく読めるが多少の根気は必要である。
日本語の事を通して英語との差異を知ることができるので、個人的には英語を勉強したい(している)人にとって読んで損はしない一冊になっていると感じた。

この本を読んだ理由は、日本人の議論ベタの理由が知りたいためであった。とかく感情の押し付け合いになりがちなのは文化た精神性という他に、そもそも言語が議論に向いていないのではないかと考えたためだ。
そしてその考えはどうやら違ったのかもしれない。上記の疑問に関しては解消できる書籍を別に探してみたい。

実際のところ、この本を借りた理由と書かれている内容には多少の齟齬はあったが読んで良かったと思える内容だった。

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