読書術を何冊か読んできたが、度々上がる本である。文化史的な読み物はあまり読んできていないのでいい機会かと思い読んでみた。
特に「いき」に興味があったわけではなかったが、日本人なら現代にも通じるポイントが多く感じられ意外に楽しめた。
いきの端的な定義を本書の言葉を引用すると
「垢抜けて、張りのある、色っぽさ」である。
いきのルーツを遊郭の文化に見出し、
その根本は媚態、つまり媚びの姿勢であるという。それが色っぽさであるというわけだ。
その媚びを直接的に露骨に表現することは野暮であるとされ、説明しすぎない張りを保つことを意気地という。現代風に言えばツンデレと言えるかもしれない。要するに緊張感が常に保たれていないといけないという訳だ。
媚態による誘惑が成功し、晴れて相思相愛になったらそこには不安定な関係性は消え、媚びの姿勢は無くなってしまう。やがて残るのは倦怠、嫌悪だからだ。
そして付かず離れず、思いが成就しないという未来に対する執着を捨てること、これが垢抜ける事だという。
この3要素を通して根底にあるのは二元性、一定の距離感と緊張感が保たれていること、これがいきの根本的な概念と九鬼は考えていたようだ。
なるほど、遊郭という特殊な世界ではあるが、恋愛におけるモテ、異性に対する華やかさや魅力と言った要素で言えば現代にもそのまま当てはまる要素も多いのではないかと思う。
媚態を失うと倦怠が残るというのは大いに納得だ。
またいきを表現するしぐさや芸術的要素についても言及しているのが面白いところで、その要素が本書を哲学書の分野に留めず文化研究史を兼ねた資料へと拡張している。
特に面白いのは模様についての考察だろう。
もっともいきな着物の柄は縞模様、特に縦縞が最もいきだという。宝暦、明和時代から遊女が特に好んだとされる。
縞は二元性、つまり付かず離れずを体現する柄であることと、複雑でなくシンプルにその関係性をフォーカスすること。
横縞よりいきなのは、ヒトの目が横に付いているため、左右の関係性を敏感に認識できるためだ。
つまり平行線の距離感を敏感に知覚できる。横縞の場合は、横棒の長さに意識がいき、上下の二元性に強く意識がいかないのだ。
複雑性はなければない方がいきだが、曲線はすっきりとしていないのでいきではないとされる。
曲線は人の目には快いとされるが緊張感のある意気地は感じられないからだ。
アウトプット大全の著者が言っていたがバカボンの着物が図らずもいきではないという定義に当てはまるので面白みを感じる。曲線で、ぐるぐる巻きの柄ものだからなるほどいきとは程遠い。
こんな風に現代にもいきがどうかの物差しの1つとしてストックしておくと楽しいかもしれない。
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